2011/10/03

表現と痛み

一人の学生として、ただ退屈な日々を送るだけの私にも、表現するということに往々にして行き詰まる時というのはある。例えば授業の一環として学生や教員を前に発表するプレゼンテーション一つとっても、他人に伝えるということの何と不自由なことか。特に表現の冗長になりがちな私にあっては、伝えるべきを過不足なくしかと言語に一致させるということの困難さは身を持って知るところで、言葉や表現を生業とする方々には本当に頭が下がる。

私の表現が冗長で回りくどいものになりがちなのは、ひとえに過不足ない情報の伝達を意図してのことだ。特に不足には敏感で、そのための補足説明のくどさといったら、それを聞く間に別に資料でも作ったほうが遥かにマシなほどである。それが誤解を恐れる自身のメンタリティの弱さに起因するのは承知のところであるのだが、こうやって二十年もの間生きてくると、もはやそれは人生の「クセ」のようなもので、容易には変えられないしつこさを伴ってしまっている。

そういえば以前、脳科学者として知られる茂木健一郎がこんなことを言っていた。

「表現するということはさ、つまり、ディスコミュニケーションと不可分ってことなんだよ。」

コミュニケーションの手段であるところの表現がそれ自体ディスコミュニケーションを内在しているというこの構造は一見矛盾しているかに思えるけれども、表現者であればあるほどこのことを痛切に感じざるを得ないのではないか。誰かが自身の内にある何かを表現したその時から、それは彼の手を離れ一人歩きを始める。表現とはそうした危うさを本来持ち合わせているもので、その伝播力に比例してその程度は大きくなる。言葉を重ねることでより確かな処に近づくことはできるけれども、それは同時に表現を陳腐化することでもある。それは離れた所から見れば全容が視認できるようになるが細部がわからなくなるのと同じ事で、本質への無限後退に他ならない。(だからこそ古くから「より簡素な言葉でまとめる」ことが表現の上で重んじられてきた。)

また表現は欠落を免れない。これはある種の定めであって、溢れる思いを口にした時、言葉にならなかった一端はそのままに失われる。両手で掬い上げた砂が僅かな指の隙間からこぼれ落ちるように、表現がすくい上げられなかった思いもまたこぼれていく。こんなことを太田光も言っていた。

しかしこの二重のディスコニュニケーションによってこそ、表現は表現としての強さを持つ。産みの苦しみとはよく言ったものだが、表現することにも痛みが伴う。その痛みに耐えられるかどうかで、善き表現者足りうるかが分かれるのだと思う。言葉や表現で飯を食う人は、その痛みを許容する強さや割り切りといったものを備えているからこそ、その世界で生きていけるのだろう。

こんな文章一つに頭を悩ませている私は、その域に達するにはまだ程遠い。

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