2013/09/12

自己決定と責任のアンビバレンス



代替医療の紡ぎ出す物語から脱落すること: 忘却からの帰還
http://transact.seesaa.net/article/374470177.html


こちらはホメオパシーに傾倒した直腸癌の患者が治療機会を逸し、病期が著しく進行してしまったというお話。

患者の自己決定権は何よりも優先されるべきものであることに異論はないように思うが、それは適切なリスク・ベネフィット評価を伴うものでなければ意味がない。たとえそれが標準治療でも、特定の治療法に過度の期待をかけることは(特に進行癌など予後の決して良くない疾患では)、多くの場合「こんなはずではなかった」という不幸を呼び寄せる。




医師が代替療法を勧めない理由


ここからは私の信念に基づく話になってしまうけれども、患者の最大の利益はどんな結果になろうとも自らの選択に納得できることであると考える。

その立場に立った時、自ら選択した治療に納得するための一番の武器は、予見可能性であり、リスクの定量的評価だ。その治療が成功した場合のみならず、失敗した場合にどのような状況が想定されるのか。それはどのくらいの確率で起こるのか。そういったことをあらかじめ織り込んだ選択であることが、不幸な事態をなるべく冷静に受け止めるための武器となる。

医師が患者に対して標準治療を勧めるのは、奏効率の高さもそうだが、何よりも一定の予見可能性が担保されていることによる。逆にそれが担保されていない代替医療に関しては懐疑的な目を向ける。

よく患者が代替医療での治療を考えていると言うと医師はいい顔をしない、という患者側からの話を聞くが、それは医師や製薬会社らの利益にならないという陰謀論めいたもののためではなく、その治療法が「どのような条件で」「どのぐらい効くのか」あるいは「どれぐらい副作用が起きるのか」という見積りがたたないためだ。そしてそれがたたなければ、標準治療との比較すら行うことができない。医師として責任をもって治療方針の提案をすることができないのだ。



「確率の問題ではない」の背景


話は変わって、よく患者側から医師に対して行われる指摘に「どれだけの症例で奏功していようと、患者にとっては効くか効かないかのみが重要で切実な問題なのだ」というものがある。これはまったくそのとおりだ。過去の他人がどうであろうと、自らの事態が改善するかどうかの保証にはならないのだから、必ずしも確率にとらわれる必要はないのである。

しかしこの論理自体は肯定できるものの、その考えに至る背景に問題がある場合も少なくなさそうだ。というのも、リスクとベネフィットをよく理解した上で最終的な治療は自分で決定する旨の表明であれば良いのだが、そのような議論を放棄した上での発言であることがあるのだ。

確かに1度きりの勝負、必ずしも過去の確率はアテにならない。確率をどう解釈するかも人によって異なる。とはいえ確率にも幅があるわけで、過剰な相対化によって途方もない隔たりを「ないもの」として捉えようとしているのであれば、それには何らかの指摘(「指導」ではない)があって然るべきである。



理解の拒絶は怠惰のためだけではない


単に選択することと、その選択に納得することの間には大いなる隔たりがある。選択の結果、それがなんであれ否応なしに受け入れざるを得ない状況では、定量的な検討は避けて通れない。何らかの治療法に効果があると言われた時、「どれぐらい効くのか」という疑問が自然に湧き上がるような環境が理想だ。

しかし我々は量の議論をしばしば小難しいものとして放棄する。それが自身の健康に関わる問題であったとしても、あまつさえ理解を拒絶することもある。このような態度はしばしば労力を惜しむ怠惰ゆえのものとされるが、実際にはかなりの部分、理解と選択により発生する責任を回避しようといった心理が働いているように思う。我々は無知を弱者の武器として用いてはいないだろうか。「無知は罪」という言葉はまさにこのような態度への批判であろう。

選択への納得は、その選択の責任を一手に引き受けてはじめて得られるものだ。生き方の選択という大きなライフイベントにおいては、眼前の責任を回避することがゆくゆく大いなる後悔をもたらす危険性について、我々はもっと知るべきであるし、知らされるべきである。

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