2013/09/10

ニセ科学批判記事、否定するだけでいいの?



泥のEM団子は環境を汚染するゴミ? 海や川の水質浄化、生態系復元のウソ
http://biz-journal.jp/2013/09/post_2829.html


リンク先は比較的しっかりとしたEM批判記事。とかくメディアでは肯定的に取り上げられがちなEMですが、こういったカウンター記事がしっかり出て行く事は有意義です。

ただし重要な事は、このような批判記事が本当に注意喚起として有効かどうかということです。もともと懐疑的にEMを見ていた人々にとっては「よくぞ書いてくれた」といったところでしょうが、本当にこのことを知るべき中立層の人々、つまり非ビリーバー、かつ非否定派の人々にとってはどうでしょう。ニセ科学を否定しようという意志が強く出るあまり、記事全体にネガティブな印象を付与してしまってはいないでしょうか。

中立層へ有効な情報提供をするには何が必要なのか、考えてみました。





否定から来るネガティブな印象の払拭


きちんとした根拠がないのに、さも本当であるかのように自説を唱える人物を批判するのは当然のことで、それは明確に正しいことです。しかし一番の問題は、その批判を読んでもらえるかどうか。それに尽きます。

研究者の方であれば「一定の根拠がなければ正しいとはいえない」という考え方を持っているでしょうが、一般的な市民は必ずしもそうではありません。直感的に「あり得ない」と思うかどうか。そして「あり得ない」と感じなければ、たとえ根拠が乏しかろうがはなから否定的に捉えることはまずないと思います。もちろん各人が持つ知識量に応じて直感の精度は変わりますので、直感的にかなり正しい判断ができる人もいるでしょうが、それと同じくらい直感だけでは正しい判断ができない人もいる。

したがって、単に根拠がないことを示すだけでは有効なカウンターになりません。否定的な材料を示し、「それを否定的にみるに値する」相応の蓋然性を主張しなくてはなりません。否定の材料は多ければ多いほど有利ですから、批判にはしっかりとそれを盛り込むわけですが、問題は批判記事の中身が否定の根拠で埋め尽くされてしまいがちだということです。

否定の根拠を正しく列記した記事は、それをもともと懐疑的に見ていた人々にとってはウケが良いでしょう。しかしそれは懐疑的・否定的に見る根拠を明確に説明してくれたこと、もっとはっきり言えば、自分の持つ意見を強化する言説に対する満足感である可能性があります。つまりその記事が俗に言う「読ませる」記事だったからとは限らず、そうであれば本来情報を受け取るべき中立層には全然読んでもらえていない可能性もある。

あなたは予備知識を持たない何かについての文章を読む際、それを否定するばかりのものを最後まで読もうと思うでしょうか?悪くすれば、批判者に対して「否定することにばかりこだわって建設的でない」と悪印象を持たれかねません。



ポジティブさを演出し、指針を示す


ではネガティブな印象を払拭するにはどうしたらいいのでしょうか。おそらく最も良い方法は「代替案の提示とその積極的推奨」であり、そのニセ科学に変わる一定の指針を示し、そのポジティブな側面を明確に伝えることです。

以前EMイベントの記事を目にした際、TWなどで見られたコメントに「楽しそうなんだよな」「充実感ありそう」といった内容が多くみられました。私も同様の感想を持ちました。ニセ科学の側がそういうポジティブな印象をもっているので、上でも書いたようにただ否定することは批判者の印象を悪くします。検証を面倒だと感じる人々は往々にして印象の良し悪しで主張の是非を判断しますが、そのような人々は私たちが思っているよりずっと多いと考えるべきです。批判者は少しでも建設的(に見える)提案をしなくてはならなりません。

もちろん、本来であれば当のニセ科学が否定された後にどうするかは人々がそれぞれ決めることであって、批判者が別の手法に肩入れするのはおかしいという意見もあるでしょう。しかしまず主張を読んでもらうためには「この記事の提案は魅力的だ」と思えるような建設的な内容である方が良いでしょう。いささかニセ科学に心惹かれているような人でも、根拠ある批判とともに次の指針を示されれば「あちゃー、だったらこっちの方がいいかも」と方向転換しやすいのではないでしょうか。

反対に、そのような人々にとってただ否定をすることは、それをどちらかといえば肯定的に見ていた彼らの善意やモチベーションまで否定されたと捉えられかねず、ニセ科学への信念を強化する方向に加速させてしまう可能性があります。

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