2013/12/10

優しさが生むディスコミュニケーション


たとえば学校関係者なんかが、「自分がされたくないことは、他人にしないようにしましょう」ってことを言いすぎたんだろうと思う。つまり、「されたくないことは、人によって違う」ということを言わなすぎなんだよね。

今朝目にした上記のツイート 。「相手の脅威にならない交渉カードを堂々と突きつけられるのはなぜなのか」「自己を他者に投影しているからではないのか」という文脈の中で発せられたものだ。

ただ、現実には我々は自己の経験から自然と「自分と他人は価値観や考え方が違う」ということを学習していくはずで、例え上記の説教を実直に心がけたとしても容易に「他者に自己を投影してわかったつもり」になるとは思えない。つまり上記のツイートから端的に結論を導くことはできない。

しかしながら、このプロセスに他者との関わりの不足が介在すると話は別だ。


「自分がされたくないことは、ほかの人にもしないようにしましょうね」と教えられて、「自分がこれからしようとしていることを他人が不快に思ったら」という不安を抱く子供は常に一定数存在する。そのような子供にとって、この不安は他者へ干渉するすべての行動を強力に抑制するだろうことは想像に難くない。

我々は自己の行動が他者にどんな影響を及ぼすか、相手の反応を見て想像し、その都度細かな修正を加え、さらにどんな観察がより有効かを導き出してゆく。この流れは経験ありき、他者への干渉・介入ありきのもの。これが抑制されれば、当然判断の精度は高くならないままだ。

我々の社会では常に「空気を読む」ことに対する強力なインセンティブがある。自我の発達が完全でない段階、時には小学生ですらそれを求められる現在、彼らはそんな状況に手持ちの武器のないまま臨むことになる。「相手を不快にさせるのではないか」という不安はさらに増大し、よりいっそう行動を縛る。失敗を恐れるあまり、彼らは何とか答えを求めるわけだが、すると「自己を相手に投影する」という選択肢が浮上してくるのだろう。いわば次善の策である。

性根の優しい者、素直な者ほど相手を不快にさせんとするあまりにこのジレンマに陥りやすく、またそのことを気に病んで自分を責めるようになる。これはまさに皮肉といってよい。

これをもって、私はむしろ「自分がされたいと思ったことを人にもしましょう」を推奨したい。「ありがた迷惑」という言葉があるように、これが必ずしも善でないことは当然としても、子供たちに他者と積極的に関わるインセンティブを与えることが必要なのではなかろうかと思う。

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